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   投稿レポート

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2016

2017

2018

2019

2020

2021

 

 

 

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 多福寺帳]

1221() 裏日本は大雪、こちら所沢はは風もなく柔らかい日差しに包まれ、帳の下りる頃の茜色に染まる西空にケヤキのシルエットが美しい。この時刻を一万歩に決め込んでいる日課だ。帰宅して横山操の画集「人生の風景」を引き出してケヤキの絵の記憶を確認する。やはり、臨場感がよみがえっていい絵だ。描いた絵が描くべくして描いたのではなくそのように見せるのだ。内面に持ち合わせている感性が豊かなんだ。時が過ぎてもいい絵はいい。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 滝の城ケヤキ]

1128()自然は大河の流れに逆らいながらも居座っている。自然には流れがあるのだ。例えば竹を見るがよい、一枚の笹の葉を見れば竹藪全体が見えてくる。竹は大きな自然の流れに沿っている。一枚一枚の葉はリズムで繋がっている。規則的な一つの流れの形がある。この流れに筆を任せて描くことに専念する。山水風景一木一草皆同根だ。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 滝の城ケヤキ]

1126()ケヤキは魅力があるが形にしづらい。どうして描きたいのか、ひまわりで有名なゴッホは弟ビンセント・ゴッホに宛てて800通の手紙を書き送ったそうだ。何してそうさせただろうか、ゴッホには生きることが創作の根元と考えられる。60余年前、戦後復興期にゴッホ展がブームを起こし、われもゴッホになれ!と檄を飛ばされたことを思い出す。戦後復興期の若者は熱気がみなぎっていた。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 圓通寺ケヤキ]

1122()長屋門の白壁が一際白く周りの初冬暮色の沈みがちな色合いを跳ね返して美しい。ケヤキの紅葉も一陣の北風が吹けば冬の裸木に変貌する。冬将軍到来だ。その時はコロナ感染どこ吹く風、冬の日差しを背に受けて陽だまりの写生はここちがいい。一人ほくそ笑んで悦に入れる。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 圓通寺ケヤキ]

1119()昨日より今日、北風強く吹いて葉が一層に散った。風当たりを避けて座るが途中、椅子のバランスを失い絵は破れ尻持ちをつく。老いて筋力の衰えは致し方ない。絵は小振りの三馬筆を使って見る。意外に水含みがよく、しっとりした擦れが出しやすく重宝にしよう。乾燥した冬景色にもしっとり感が欲しい。淡墨の中の濃墨の浮き立つさまは落ち着きがない。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 清瀬圓通寺ケヤキ]

1118()相性の良いケヤキに出合えた。所沢界隈は申し分ないほどケヤキは数多いがこちらの願いに叶うのは自然を相手にしては容易でない。天気一つにしてもあなたまかせだ。自然にゆだねて待つことが肝要、自然に従い教われと云う。願いごとは禁物だ。如何にして欲するものを手にするか、それが人の知恵と思う。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 多福寺ケヤキ]

1114()ケヤキに魅せられての写生は当然だがケヤキの風景にあやかって新しい表現スタイルを見つけたい。ケヤキは身近にあるから遠く異郷へ行かなくともよい、年老いては無理なこと。ケヤキの向こう、つまり写生の奥に何がある、絵に表せれば今の願いはかなえられる。それが新しい絵画スタイルにもなる。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 所沢ケヤキ]

1113() めっきり寒くなってケヤキの紅葉が昨日よりも今日一際に著しい。落ち葉がからから舞って写生の時季到来だ。来るものは喪中挨拶状もこの時期から、すでに6通が来る。お悔やみ礼状を返す。杉谷先生追悼文も書き始める。みんな過去のことのようだが自分には新しく初めてのことだ。一文でも書くことは苦しくも難しい。何もしないで済ませればそれがいい心境だ。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 所沢彩翔亭]

118() サークルの帰途一人写生に立ち寄ると拡声器から「公園をご利用の皆様、コロナ感染防止へマスクの着用と手洗いにご協力ください」と大きな声、周りに人はいなく突然で驚く。サークルでは今日初めて染法をみんなの習作に施して見せた。写生手法を勾皴点で指導が続いているから自作の変わりように驚いたようだ。水墨画らしく見えてきたのであろう、自分も励みになった。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 多福寺]

117()銀杏拾う。四つ五つ拾って腰を伸ばし空を仰ぐ。黄葉と緑葉樹の競演に見とれてまた拾う。おばあさんと嫁と女の子の3人連れで松ぽっくりは落ちてないかと来て云う。一緒に探したが見つからず、ある時にはあるものにと帰って行った。子を思う親を不憫に思う。初霜が降り木枯らしが吹けば境内一面が紅葉の落ち葉に覆いつくされる日も真じかだ。その時、再会できればいい。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 奥武蔵吾野]

115() 秋晴れの暑くも寒くもない初冬の山里、穏やかな一日だった。コロナ渦はここまでは追いかけて来ないがと、でもポケットにマスクは偲ばせている。コーヒーとあんパンが定番の馴染みの店に立ち寄ると見知らない客のおばさんから今日はどこで描いたかと声を掛けられて話が弾んだ。知らぬは仏、山里の何処かで見られているのだ。マスクを掛けるべきだろうか。(投稿者 青山 穆)

 

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 長源寺山門]

114()自然風景は美しいと畏敬の念を込めて絵に描く、さもなければこんなに繰り返し描かないがコロナウイルスが蔓延する今日、疑念に思うこと、ウイルスは人間誕生時点に存在していただろうから人間が自然を制覇する現今の形態でなく、眠る子ウイルスを起こすような現在の地球環境を正すことに専念すべきだろう。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 奥武蔵杉の山]

 1031() 満月に感動して帰る。毎年のことのように十月の満月を待つのだが巡り合えなくやっとのこと、山の端と月の位置関係、時間がタイミングよく叶えられた。子供の時の思い出す月は切ないばかりだが今夜は歓喜の月だ。この瞬間を絵に封じ込められるものならば二度なくともよい、今宵で満足である。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 奥武蔵休暇村]

1024() 一夜明けると今朝は肌寒い。河原の写生でみんな寒いと不平を云う。屋外の写生は天候状況に合わせて自然は先生と敬い従わなければいけない。陽は一方向に射し自然には大きな流れがあることに気付けば墨色の濃淡も乱れないで全体の統一が執れる。風景の一つのところに捕らわれないこと、自分本位に執着するとそれは個性でなく未熟なのである。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 円福寺]

 1022() もみじの色づきはまだ早い。この境内も白壁に影を落とし白と紅のコントラストが美しい。ぐっと近づいて葉の一枚一枚を描くのも一興かと思う。狭いフレームをのぞき込んでみる自然の風景は異境があって面白いだろう。自然は風景と云わず石や草でもそのものが置かれている環境を念頭に置いて見れば表情が豊かに映る。風が吹いてくる、陽が差してきたと自然の移ろいを感じよう。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 長源寺阿弥陀堂]

1021() 漆喰壁の白が印象に残っていつも気にしている。今日は気の進まないままに筆を執る。散歩途中の屋敷林に囲まれた農家の母屋には隣接して1戸や2戸の蔵がある。昔は土壁のままであったがいつの時か戦後のことと記憶するが競うように白の漆喰壁になった。暮らしが豊かになったのだ。樫の木かケヤキの木が白色を引き立てて武蔵野の面影を彷彿とさせる。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 長源寺松陰]

1020() 秋深まり樹木の陰影が柔らかい。抜けるような青空を環綿のような雲が覆いはじめ、女ごころと秋の空、秋雨の予兆だろうか。暑からず寒からずの心地よい気分だが夕刻の鐘の鳴る前に退散せねば門扉が閉じられる。今日は次のステップの繋ぎになった。楽しみは自然の形象をどのように描き留めるか、自然と対峙する自身の気持ちのありようによるからその時を待つこと。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 多福寺]

 1018() 風景をもっと引き寄せて描きたいが何か過去の概念が災いしてギアチェンジができないのが目下の悩みだ。狙うところの自然との居り合う接点はよく見えているにも関わらず、老いた概念を断ち切れなく今一歩のところ、筆墨のテクニックの未熟さを克服すれば前途は光明である。一歩一歩が実に楽しい。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 奥武蔵里山]

1013() 台風一過の秋空にそそり立つ杉山をみんなして描いた。昼前は鉛筆でスケッチ、午後は水墨で写生。陽がどちらから差して、樹も石も風景にも流れの方向があることを見極めて描くように進言する。構成が組み立てやすく統一感が生まれやすい。難しい注文だろうか、実景を前にすれば納得できるのだが簡単のようで絵に落とし込めない。どんな絵になるか次回が楽しみだ。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 奥武蔵初秋]

928()杉の木の生い茂る山の肌を描きたいと加齢の性か歩くが辛かった。河原に降りると散歩する先日の親子にあった。「いいところ、見つかりましたか。絵を描かれるの?」「あー」と返す。変り映えのしない山の斜面だが早く描かねばと頭の中は一杯だった。川面は今日も小刻みな音をたてて流れていた。一点を目を凝らし見つめていると、もう描き終わったような虚脱感。心機一転して描く。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[コロナ時代 奥武蔵初秋]

 922()日暮れが早くなった。ススキの穂が風にそよぎ秋忍びよる感深まる。全紙三分の一を2枚用意して先日の奥武蔵高麗川に向った。川べりに赤ずきんの地蔵さんが一体立っていた。やっと、自分の地蔵尊も6曲屏風に仕立て終わる。お披露目に先ずは関わりのお寺の住職や檀家の人たちに持って回ろうか、さりげなく見て欲しい。その顔が見たい。(投稿者 青山 穆)

 

 

 

青山スケッチ日記[多福寺]

 919()秋しのびよる。今朝は病院でコロナ感染のマスクをしてむさ苦しかった。境内はいつも静かでよい。10月から病院は外来診療を再開するそうだ。写生してコロナ時代の今に思うこと、全くの受け身でありながらこの感染を漫然と回避しているだけでいいだろうか。この危機と対峙してクリエイティブへ能動的に浸透させ思考して反映させなければ時代に生きる写生にならないのでなかろうかと考える。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[奥武蔵の山]

 91() 暑さも和らいで山が描きたくなったが眼前にすると山に押され覇気がない絵になった。奥武蔵の山は牛の寝姿の脊中を撫でるような実に描きようもなく丘のような山だ。岩崖の一つもあれば絵に好都合と思うのだが陰景のない杉山がぐるりと連なっている。戦後復興の住宅ブームに合わせて植林したのだろうか今や見事な景観だ。躊躇しながら2枚描いて帰る。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[長源寺境内]

 

 

青山スケッチ日記[安松の杜]

 822() 暑さしのぎに夕刻の杜を写生する。風が心地よく蝉しぐれも遠くに聞こえるようだ。BSTV番組禅の法話で、修行とは何事の行いも邪念を払う心境と聞く。絵を描くことにも通じるところがあるようだ。無心、無我とか無欲と描く行為の精神性が問われる。特に伝統芸術水墨画の明時代までは色濃く反映する。現代では姿を借り、蓑を借りて猿真似にすぎない。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[安松の杉]

 820() 例年ならば820日とならば台風の時期、暑い日が続く。夕刻に杉を描きに杜へ出る。セミの声が降り注ぐ。近くによって筆を披痲皴で走らせると長くストロークで全紙に引けばさぞ気持ちがよいものをと思う。この杉は自分と同じ年ごろだろうか、真っすぐ伸びてしわの深い古老の風格に自分は遠い。背丈比べでないけれどもまだ先々共に余生あるだろうか。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[奥武蔵吾妻峡]

 82() 毎朝の日課、新聞を取り、TVのニュースを見る。日本から世界のコロナ感染や暴動、各国の政治経済動向が激しい。今日は梅雨明けして久しぶりの電車で写生に出た。街も山も行き交う人はマスク着用、自分もそっと掛ける。安閑として絵など描いていられない心境だが自分に今できることはこの位のこと。崖っぷちで清流の石をやけに皴法で挑戦する。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[長源寺松陰]

 724() 雨になるか、植木職人はそのまま仕事を続けている。自分は広げた紙をもって軒下へ移動して描き続けた。今日は暑さ知らず、筆が走る。気分爽快だ。降りだす雨に躊躇せず、写生に出てきて正解だった。多少のことは意に介せず、思い道理に従うがよい。2500年前からブッタの諭しにあるでないか、因果の道理で不利になったにしても悔やむことなどない。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[所沢淵の森]

 722() 描き終えると、汗がどっと噴き出て我慢できない暑さだった。さすがに土用、暑中見舞いの時期である。木陰とは云ども風吹かず、我慢の限界だったろうに無我夢中、気にならなかった。ほっとして我に返れば、一点に集中した時間の何ものにも代えがたい達成感に似たいっときの喜びだ。歳を重ねるとこんな感激は人にも云われず、一人噛みしめて悦に思う。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[長源寺 キキョウ]

 

 

青山スケッチ日記[清瀬空堀川]

 74() 梅雨の晴れ間に淀んだ川面を探して小一時間歩いた。いつも歩いているからおよその検討は立つのだが、絵心誘われるようなポイントはなかなか見つからない。イメージが先走っていてはどんなに探しても徒労に終わる。出会いは偶然に決まる。来た道を返り、休みを取りながら川面を眺めているとイメージも固まって、ここぞとばかり、描いて帰る。難儀だった。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[写意百合画3]

72()庭に咲いた今年最後の白百合。来年も咲けばと思う矢先に「諸行無常」と揮毫したはがき絵が舞い込んだ。新型コロナに集中豪雨と身につまされるニュースをこの四字熟語は使い勝手に便利が良いが諸法無我一切皆苦涅槃寂静と続けて仏教の説く「悟り」を思案すると、漠然と絵を描く楽しさを感じることから噛みしめる心境に転嫁する様子が見て取れる。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[写意百合画2]

630()構想があって朝に墨を摺りはじめたが作晩読み始めた塚田洋二ブログ癌闘病記を読み継いで昼になる。ノーベル賞に最も近いとノミネートされながら病死した科学者の極限に生きる死生観が読み取れるだろうか、と。ここで1年間、処方薬を飲み続けてその効能にいま、驚いている。しかし、病は消されても煩悩までは治療外、どこへ訪ねるか思案し兼ねる。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[写意ユリ画]

 624()庭に咲かないかと案じていた白ユリが咲いてくれた。一番花、二番花と順繰りに咲いて一週間ほどのライブショーが始まった。うがった見方だがこのコロナ渦にぽっと咲いた花に人の命の無常を見透かされているよう清浄感と重ねあわせ、絵を描く根源を探る。日ごろ、死が人はそこにあることを知りながら追いやっている。怖いのだ。これはあの世にも咲く。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[安松神社緑陰]

 620()コロナ渦の半ば右手甲骨折。外出自粛のお達しに同調して一カ月余の不便さからやっと、解放されて久しぶりの写生をした。人は日常、心中を一点に集中する時間があればそれだけで十分に幸せだと今日の写生から思うにこれは瞑想に通じる。自分には描くことはこのための心中統一のスキルであってすべての願いごとは排除されて爽快感が充満する。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[奥武蔵]

 66() 青山さんが右手外傷のため左手で描いた奥武蔵の写意画を紹介します。

 

 

青山スケッチ日記[長源寺牡丹]

 515() 新茶に添えた牡丹のはがき絵が好評だ。もう5月の半ば、牡丹に代り雀躍がとってかわり新緑に映え鮮やかに咲く。座れば牡丹たてば芍薬か、季節の折り折りに咲くどんな花も昨年も見たのに今年も心慰めてくれる。受け止める人それぞれの違いがあろうが五十歩百歩だ。今年、自分はその域をはみ出した表現がして見たかった。来年はもっと踏み越えよう。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[奥武蔵東吾野]

 58() コロナ渦に安閑としていられないがわが身におよばなければ老いては何をする手もなく久しぶりに電車に乗る。今日、郊外の写生は一人川辺に放心状態で座り込んでいるこの時間が何ものにも代えがたい。写生をする条件が整う限り、捨てがたい。写生はそのお膳立てで目的でなくて本当は何かはっきりつかめないが確かに何か、それを掴むための写生か。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[長源寺境内カキツバタ]

 55() 5月に入って新緑の写生日和が続くがコロナ渦で外出自粛、今日は言い訳がましいがカキツバタで憂さ晴らしだ。牡丹が終わるとつい見過ごしてしまうが先日のこと、庫裡のおばあさんからもう直ぐカキツバタが咲くと教えられた。ぼくは細い葉っぱの真っすぐ伸びるこの姿が好きだ。楚々と咲いているがこのときばかりと狂おしくも感じる。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[紅の牡丹]

 427() 今年の開花は例年より透過も早いのでないか、新型コロナ騒動に惑わされて見逃すところだった。年々歳々花相似たれども…と本当に心身ともに昨年より今年の老化を自覚する。自分と同一名に魅かれて西有穆山禅師の生涯と合わせて吉本後隆明の「老いを生きる」を読む。読本「親鸞の手紙」も読めばみんな自分より高齢者の生きさまをたどることになり、何か探しものをしているようであさましい。描くがいい。(投稿者 青山 穆)

   

 

青山スケッチ日記[奥武蔵正丸大蔵沢]

 319() 桜開花宣言があってもこの山間の渓流沿いは梅が満開、レンギョウにツバキが黄や紅の色を添えて桃源郷だ。谷底の水音だけが静寂を破る。早春の水の音を岩の間に聴きとめて絵にしてみたい。間断なく聞こえる水音を聞くには日常のまとい付く邪念をすっかり取り除かねばならない。どのように聞こえてくるか、聴きとどめて形にないものを形にする。(投稿者 青山 穆)

  

 

青山スケッチ日記[長源寺紅梅]

21()昨日、今日と紅梅を写生。庭師の手の入った庭は風が当たらず暖か、ただ一人写生して悦に入るとは贅沢なこと、有難い。全紙半切を膝の上でたぐり乍ら彩色して描く。白梅の開花はまだ早く、ここ暫くは梅の虜になるだろう。久しく会わない友、懐かしい友へ1枚、1枚送ろうか、煩わしく思われようとも紙1枚いっときのこと、迷惑にならないだろう。(投稿者 青山 穆)

 

 

 

青山スケッチ日記[多福寺]

124()紅梅がポチッと咲いていた。わが家の水仙はやっと咲き始めたのに一足早い。直ぐに立春、節分豆まきと季節の折り目のなつかしい思い出がよみがえる。今年は暖冬で降雪はなく、寒気も緩やかだから早春の「気のエネルギー」の感動が薄い。「気」は形こそないが山水画の成り立ちに不可欠なものとして古代から表現の追求が止まない。「外師造化,中得心源」(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[長源寺]

121()水墨画は何一つ利害なく、何か訳があってのことかと考えるが止めるに忍びない。因果なことだが面白いことは確かである。あれこれ未知なことを思いめぐらして絵に表現したいと試行錯誤が続く。今日は山水画の「気」は中から外へと力が向かうことを再認識する。この自然の仕組みを体得すると筆がなかなかよく運んで気持ちよい。造化もスムーズだ。(投稿者 青山 穆)

 

青山スケッチ日記[清瀬円福寺]

119()昨年の秋もここで写生したことを思い出す。すっかり忘れている。同じところでも自然は移ろいやすい。対面する自分も同じでない。昨年と今日の心構えも違っている。当然のことだ。だから絵は持続した仕上がりにならない。その都度の対面する自然と対する側の自分がどんな情況であるか、絵の出来具合はこれ如何で決まってしまう。偶然はあり得ない。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[奥武蔵西吾野その2]

119() 頭上はまだ明るく陽は3時を過ぎた頃なのに山に隠れてしまった。すり鉢の底とよく云ったものだ。今日は山の壁のような北斜面を目いっぱいに描きたいと目論んだ。焦墨は筆先の濃淡に気遣いなく筆をストレートに走らせられて気分がよい。高揚して描いて満足感でいっぱいだ。何の取り得もないからこれがよい。いっときの幸せ。また描く。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[山茶花]

116() 母ことさんが植えて50年経つだろうか、この山茶花。この山茶花を改めて描いて手がかりは別にないがことさんが自分の記憶の中によみがえってくる思い出の一本の木だ。小さな苗木が今や背丈より高く、咲く花は凛として美しい。記憶は片鱗でもあれば実際よりかなりかけ離れて自分に都合のいいように美化されるが、その元は片鱗でもあるわけである。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[奥武蔵西吾野]

 19() あの松林図を描いた等伯の心にはどんな葛藤があったのだろうかと画像を松に絞り込むに至るさまざまな心境の起伏を推察するがそれは作画以前の人となりの問題だろうか。写生を単純化したいが苦慮する。昨日、ケヤキの梢に月の上がるのを見た。今日は山の端の月の光景を眺めようと山中で待ったが月は見えなかった.胸中に描きながらも写生の心境から写意に転換させねばならない。(投稿者 青山 穆)

 

 

青山スケッチ日記[奥武蔵東吾野]

16()賀状が今日も配達されてくる。新年の挨拶だから正月に投函したいがなぜか、年末25日までと決めつけられて年始の気分の乗らない賀状になってしまう。しかし、一枚一枚、健康を気遣い、家族の成長を喜ぶ便りをめくり、この時世にこの幸せが本当に続いてくれるのだろうか、思いがけないことに巻き込まれる人生を受けなければよいがとふと思う。(投稿者 青山 穆)

 

 

 

 

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